いのちを注ぎだす | 十字架の恵みが溢れて
第一ペテロ1:2 岩波訳
ペニーさんがKFCでメッセージをされた。今回はお会いすることはできなかったが、彼女のメッセージを聞き、非常に励ましを受けた。
今回のメッセージは「いのちを注ぎだす」というテーマだった。
以下はKFCメッセージのアウトライン
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「 本日は英国のPennyさんのメッセージです。旧約聖書と新約聖書を通じて、血と水を注ぎだすことを見てみます。不妊の女ハンナは主の前に自分の心を注ぎだしていました。その中で新しいいのちを得ました。新約ではイエスご自身が十字架で血と水を注ぎ出しました。そこからいのちを得たのがエクレシアでした。私たちも御霊を受けて、そのいのちを自分の中にとどめ置くことなく、周りに流し出すとき、さらなる御霊のいのちを受けて、私たち自身が満たされます。このようにしていのちが循環することにより、神のいのちが拡大していくのです。このいのちの循環にとどまりましょう。 」
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いのちを注ぎだす・・というテーマを読んだだけで、私の心は喜びに満たされた。
それは私の心の中に、このメッセージを聞くずっと以前から強い示しを受け続けていたからだ。
以前は流し出すといえば、主が私にしてくださったことを証すること・・ぐらいにしか思っていなかった。しかし主の思いはそれだけにとどまることはない。
心に流れ込んでくるいのちの水の流れが、私の中だけにとどまることを望まず、まるで溢れ流れる場所を、水自身が強く求めておられるかのように感じていた。
その血を注ぎかけられるように選ばれた・・のは、その血を注ぐため、注ぎだす者とされるためなのである。
いのちを注ぐ・・ことについていつも心にある御言葉
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「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」
岩波訳では、「世にいる自分に属する人々を愛するにあたって、この人々を極みまで愛した。」。。。極みまで愛した。。
イエスにとっていのちを注ぐということは
神の愛を現すことであり、この上なく愛すること、極みまで愛することを意味していた。33年間の歩み全てが、イエスにとっていのちを注ぐ行為だった。その究極、結晶が十字架なのである。
「それでは、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたも互いの足を洗い合わなければならない。
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