1967-69アメリカ遊学日記 | 喬哉の落書き帖
ワシントンの冬の訪れは早かった。11月の第1週には朝の気温が零下を記録し、薄氷が張った。ラジオはニューヨーク州からオハイオ州の方にかなりの雪が降ったことを告げていた。ワシントンは北緯では日本の岩手県花巻市辺りに位置し、この時期に氷が張っても不思議はなかった。
アメリカに来て驚いたことの1つは天気予報がきわめて正確なことだった。午後の予報で「ワシントンとその近郊は夕方6時頃には雪になるでしょう」といっていたので、その時刻にブラインドを上げて外を見ると、静かに雪が降り始めている。日本なら数時間の誤差は当たり前なのにこちらでは雨や雪の降り出す時刻までほぼ正確に予報してくれる。その違いはどこ� ��ら来るのか。
1960年代の日本の気象予報技術があるいはアメリカに及ばないところがあったかも知れない。しかし、現地に住んでみると、そうしたことよりもむしろ国土の置かれた条件が予報精度を大きく左右していることに気が付いた。アメリカは東西4000キロを超す広大な国土がまったくの地続きで、大陸内の気象の変化を刻々と捉えることができる。片や日本は四方を海に囲まれていて、海上では陸地のようなきめ細かな定点観測をすることは不可能だ。このハンディゆえに「日本の天気予報はなかなか当たらない」との牋評瓩成立したという面も大いにあるだろうと思った。
下宿の寒さに閉口する
このように外気が下がってくると、それまでは気づかずにいたわが宿、ハートネットホールの問題点が浮かび上がってきた。部� �の暖房がよく効かないのだ。
日中から宵の口まではそれほどでもないのだが、深夜から明け方の冷え込みには閉口した。部屋のスチーム暖房を強くするよう事務所に掛け合うのだが、「分かりました」と口では言うものの、実際に対応してくれたのかどうか、部屋は一向に暖かくならない。やむなく、レインコートとかセーターを毛布の上に並べて寒さを防ぐ始末。ホテルなどでは「エキストラ・ブランケット(予備の毛布)」の用意があるのが普通で、旅慣れた今なら、それを要求していたところだが、そんな知識もなかったのでひたすら手持ちの衣服を重ねて寒さに耐えていた。
そんななか、ぼくはせめてもの抵抗として部屋を暖めるある仕掛けを試みた。部屋にある洗面の中にタオルを巻いたウイスキーの空き瓶を置き、これに一晩じゅうお湯を掛けっぱな しにして湯気を出すという方法だ。しかし、ぼくらの部屋は大きなリビングを2人部屋に造り替えたもので、40畳もあるがらんとした部屋がその程度の湯気で暖まるはずもなかった。
経済会議の取材費でタイプを買う
年明け1月15日のTOEFL(米国留学のための英語学力検定試験)の試験に備え、ひたすら英語の勉強という毎日を送っていたぼくだったが、そんな暗い生活に11月から12月にかけて2つの、いってみれば前向きの変化があった。
1つは、ぼくにとっては大金ともいえる70ドルでポータブル・タイプライターを買ったことだ。9月にワシントンで開催された日米経済合同委員会の取材費311ドルが11月末にようやく産経本社から送金されてきた。これで苦しかった懐具合にも若干ゆとりができ、タイプを買う気になった。
タイプについては、かねてからその必要性は感じていた。しかし、幸いなことに同室の産経留学生・宮内剛男君が渡米早々薄型のポータブル・タイプライターを買っていたので、それを時折使わせてもらっていた。手書きでもいいという学校の宿題を、タイプの練習を兼ねて彼のタイプでポツンポツンとたたいては提出していた。しかし、いつまでも他人のタイプを使っていては、万一壊してしまったら取り返しがつかないし、いずれ大 学に入ればタイプは必要だろうと考え、踏み切った。
ロイヤルの新品がケース付きで70ドル
国家気象サービススーフォールズ、SD
タイプは市内のディスカウントショップで購入した。最初は50ドル以内の中古品でもと思っていたが、その店でロイヤルという大手メーカーの新品をケース共で70ドルにするというので買う気になった。店の主人は、本体価格98ドルのところを78ドルにするといったが、ぼくが渋っていると、57ドルでどうだという。ケースが13ドルというところにからくりが感じられなくもなかったが、一周り小さい宮内君のタイプが34ドルだったことから推して大して損はないだろうと手を打った。70ドルの投資はぼくにとってはけして小さくない金額だったが、久々に前向きの積極行動をとったような感じがして気分がよかった。
正月原稿の取材� �小学校、高校を訪問
もう1つの前向きの変化は、産経本社から正月用の原稿依頼がきたことだ。ぼくら産経社内留学生は2年間の留学期間中は仕事から完全に解放されることになっていたが、何かの折に原稿の注文が来るというのはけして迷惑な話ではなかった。もともと記事を書くのは本職だし、小さな仕事でも本社が当てにしてくれるというのは、外国で孤独な生活を送っている身には嬉しいことだった。
ご存じのように日本の新聞の新年号というのは何分冊にもなっていて、ニュースの他にさまざまな企画や特集が組まれている。こうした特集は正月らしく、明るい未来志向のものが多く、ぼくが発注を受けた特集も「未来の学校をもとめて」がそのタイトル。当時、アメリカの公立学校では「無学年教室」という一種の� ��育実験が進められており、その教育現場がどのようなものか探るのがそのねらいだった。
小グループ指導で「無学年教室」を実現
ぼくは11月も終わりに近づいた2日間を取材日にあて、ワシントンに隣接するメリーランド州のジョン・F・ケネディ高校とブッシー・ドライブ小学校という2つの公立学校をレンタカーで回った。このうちケネディ高校の方は4年前に開校したばかりの新設校だったが、無学年教室の成功で今年の1月に全米のモデル校に選ばれるという実績を挙げていた。
無学年教室というのはひと言でいうと、これまでの年齢に応じた学年とかクラスといった枠を取り払い、生徒の学力に応じて小グループをつくり指導するやり方だ。ただ、そうはいっても生徒の学力、成長のレベルには違いがあるの� �、実際には全校生徒を年齢に応じて3つに分け、その中で学力に応じた指導をするという方法をとっている。
こうした学校の教室をのぞいてみると、生徒が5、6人の小グループに分けられ、それぞれに異なった勉強をしている。与えられたカリキュラムに沿って自習しているグループもあれば、先生について国語、算数などを勉強していたり、隅の方では1人の生徒に先生が付きっきりでその生徒の不得手な科目を指導している――といった具合だ。グループ内の生徒の年齢も2、3歳の幅があるのはざら。初級から中級に飛び級してきた生徒もいれば、上の級に進めないで年下の子と一緒に勉強している生徒もいる。そんな生徒も別の教科の時にはいちばん進んだグループに入っていることも珍しくない。
教師の負担増は集� ��指導で克服
要するに、生徒の学力や成長に応じたグループをつくることで、生徒の能力をフルに引き出し、同時に落ちこぼれを防ぐのが無学年教室のねらいだ。その分、先生たちの負担が大きくなるのだが、これらの学校では生徒100人に対し5〜10人の先生を配置、集団指導で対応している。先生たちが生徒の情報を交換し合うことで指導のきめ細かさと効率性を確保していた。
アメリカの2つの公立学校を取材して羨ましいと思ったのは、生徒の指導育成について学校なり教職員がきわめて自由に発想し行動していること、また、父兄もそうした取り組みを許しているという自由な教育環境があることだった。学習指導要領とやらで教育現場をがんじがらめにしている日本の文部省教育に対する強烈なアンチテーゼがそ こにあった。
英語漬けで日本語を忘れる
市会議員"子どもは明日になる"
取材を終えたぼくは翌日からただちに原稿を書き始めた。この現場レポートを350行にまとめるというのが本社からの注文。350行というと新聞1ページの約3分の1を埋める長さで、数日かけてじっくり取り組むつもりだった。
ところが、書き出してみると意外なところに落とし穴があった。1日も早く英語を身につけようと、渡米以来できるだけ英語中心の生活を送ることを心掛けていたのが裏目に出た。思うように日本語が出てこないのだ。簡単な文章は問題ないが、少しでも抽象的な文章になったりすると、書こうとする事柄に対応する日本語がなかなか浮かんでこない。
無学年教室の一つのキーワードは「チーム・ティーチング」(先生がチームを組んで協力し合いながら生徒を指導すること)だったが、これに合う日本語にはたしか「集団指導」という言葉があったなとぼんやり思うのだが、この4文字がはっきりした言葉となって出てこない。これはショックだった。
日本語の勉強に『夜明け前』を読む
自分は日本の新聞記者だ。それがいざというときに日本語がまともに書けないのでは話にならない。ワシントンに来て以来、意識的に日本語から離れる生活を送ってきたが、1日のうち10分間でも日本語を読む必要を痛感した。そこで正月用原稿を書き上げると早速、日本語を求めてジョージタウン大学の図書館へ行った。日本語文献の書架をあれこれ物色したが、固い学問書はとても読� �気になれない。そこで日本文学全集の中からかねて読みたいと思っていた島崎藤村の『夜明け前』を借り出した。
日本語に触れるという点に関しては、ロサンゼルスへ行ってからはリトルトーキョーに日本の本屋があり、もっぱら『中央公論』を毎月買って読んでいた。しかし、当時のワシントンは大使館の政府関係者とマスコミ特派員が狷本人村瓩里垢戮討箸いΧ垢ぜ匆颪如月刊誌はおろか週刊誌1冊すら手に入れるのは難しかった。産経ワシントン支局に行けば日本の新聞は読むことができたが、毎日出掛ける訳にはいかない。自分にいちばん近い日本語は大学図書館の中にしかなかった。
無学年教室の記事、母校校長の目に留まる
こうして苦労しながら書き上げたアメリカの無学年教室の記事は、ぼくの撮った2枚の� ��真とともに署名入りで1968(昭和43)年1月1日の産経新聞に載った。
この記事には思わぬ後日譚があった。かつてぼくが学んだ聖学院中学・高等学校(東京・駒込)の海野次郎校長がこれを読み、教職員の参考にと職員室で回覧していたのだ。署名原稿のお陰だ。今回、自分史を書くために母の遺品を整理していたら、手紙の束の中に海野校長が1月10日付で母宛に出したはがきが見つかり、そのことを知った。
はがきには、
「喬也君の報告の記事、なつかしく拝見致しました。彼はいつ渡米され、いつお帰りになりますか。あの新聞は職員室で回覧するように致しました」
と書かれてあった。
海野校長はぼくの在学当時は教頭として数学を教えていたが、ぼくはつねに劣等生で、先生を手こずらせていた。そのぼくが13年後に突然、新聞記事に形を変えて母校に里帰りしたようなものだ。これには海野校長も少なからず驚いたみたいで、思わず母に宛てて問い合わせとも報告ともつかないはがきを出したのではなかろうか。海外渡航が自由化されたとはいえ、アメリカ駐在とかアメリカ留学がまだまだ珍しかった1960年代ならではの小さなエピソードである。
ワシントンのクリスマス
フランス人はアメリカ革命を手助けしてきた方法
クリスマスが近づくにつれワシントンのダウンタウンもクリスマスの飾りをつけた店が増え、街行く人々も何となく浮き足立ってくる。だが、金もなし、車もなし、知り合いもなしのわれら貧乏留学生はそうした華やいだ雰囲気から取り残され下宿にくすぶったままだ。
「折角のクリスマス休暇だ。景気づけにレンタカーしてみんなで遠出しないか」
ハートネットホールに滞在している日本人仲間の間からこんな声が上がったのは12月も20日を過ぎた頃だった。
遊ぶ話となるとまとまるのは早い。ワシントンからそう遠くないバージニア州の観光地・ウィリアムズバーグへ1泊2日のドライブ旅行をすることになった。手を挙げたのは宮内君にぼく、それに大分大学から研修に来ている体育の先生など計5人。
男5人がゆったり乗れる中型車を借りたぼくらは23日の朝、ワシントンを出発した。たまたま前の晩に雪が降り、ハイウエーの両側は美しい銀世界。ウィリアムズバーグまでの250キロを交代で運転しながら4時間かけてドライブした。
ウィリアムズバーグに植民地時代を見る
ウィリアムズバーグは18世紀のイギリス植民地時代にバージニア州の州都だったところで、町全体が当時のままに復元された巨大な歴史博物館になっている。議事堂、総督公邸、教会といった公的な建物はもちろんだが、居酒屋(タバーン)、パン屋、時計屋、かつら屋、鍛冶屋などが、そこに働く人々の服装から作業のやり方まで当時そのままに忠実に再現されている。
ぼくはそのしつこいくらいの徹底ぶりに感心した。日本でいえば江戸中期の犖鼎記瓩任靴ない建物や生活だが、歴史の浅いアメリカではそれらは建国の歴史につながる貴重でかけがえのない国民の財産だというアメリカ人の誇りが町全体に息づいていた。
だからこそ米政府は、このウィリアムズバーグを対外的な狎楝圓両讚瓩箸靴得泙某┐譴導萢僂靴討い襪里澄この9月にワシントンで開かれた日米経済合同委員会の折、会議に先立ち三木外相ら日本の閣僚がここに1泊したのも米側のお膳立てだった。だいぶ後のことになるが、1983年にレーガン大統領は中曽根、サッチャーら先進7か国首脳を招いてここで第9回サミットを開催している。
ホテルが満杯で、ノーフォークに泊まる
ウィリアムズバーグに来たのはいい� ��、宿のことを考えていなかったのは失敗だった。クリスマスの観光シーズンとあって小さい町のホテルはいずれも満室。やむなく約60キロ離れた港町ノーフォークまで足を伸ばしようやく泊まることができた。
翌朝はまたウィリアムズバーグに戻り、町の広場で軍隊の行進や礼砲のデモンストレーションを見物した。広場には前日の雪が残り、厳しい冷え込みの中をイギリス兵に扮した若者たちが列を組んで行進する。彼らの吐く息が白く、鉄砲を担ぐ手がかじかんで真っ赤になっているのが痛々しかった。
これ以上あまり見るところもなかったので、昼にはウィリアムズバーグを発ち、夕方ワシントンに無事到着した。この旅行でかかった費用はレンタカー代、ホテル代、食事代合わせて1人25ドル。ずいぶん安く上がった感じだったが、これも5人で動いたからだった。
アメリカ人家庭でクリスマス・ディナー
ウィリアムズバーグの旅行から帰ったその翌日、宮内君とぼくはアメリカ人家庭からクリスマス・ディナーに呼ばれて出掛けた。普段、こんなに予定が立て込むことは滅多にないのだが、ぼくらの英語研修プログラムを担当している国務省のヘレン・デービス女史が前もって手配してくれていたので有難くそれに従った。
デービス女史は教育文化局人材交流課のプログラム・オフィサーの肩書きを持ち、マスコミその他海外からの来訪者とアメリカ人との交流を図るのが主な仕事。クリスマスシーズンは彼女にとって交流業務を進める格好の機会と捉えているようだった。女史の手元には同省の人材交流プログラムに協力してくれる全国各地のボランティアの名簿があって、今回ぼくらを招待してくたアームストロングさんもそうしたボランティアの1人だった。
手づくりの家庭の味に舌鼓
ワシントン郊外に住むアームストロングさんは40過ぎのサラリーマン。奥さんとの間に4人の子供があるごく普通のアメリカ人家庭といった感じだった。この日は宮内君とぼく以外にもう1人、ケニヤの研修生も招待されており、合計9人で賑やかに食卓を� �んだ。
クリスマス・ディナーといっても実際はランチなのだが、ミートローフを主菜にしたアームストロング夫人手づくりのフルコースはやはり家庭の味がしておいしかった。この4か月間、ハートネットホールの決まり切ったメニューに慣らされた舌には口に入れるものすべてが新鮮だった。
食後のコーヒーが終わったところでアームストロングさんが「ちょっと見せたいものがある」と立ち上がった。彼に従って地下室に降りていくと、20畳ほどもある部屋いっぱいに広がっていたのは野山や町を模した風景とその中をぬって走る汽車や電車のミニチュア。何年もかけて作った彼ご自慢の鉄道模型だった。地下をまるまる趣味の部屋に充てるなど、日本のサラリーマンには到底かなわない夢だったが、アメリカではそれが夢ではないこ とを知らされた。
ロスの友人とゴーゴー・バーへ
アームストロング一家の心のこもったもてなしはじゅうぶん堪能できたし、アメリカ人のクリスマスを知る得難い体験だった。だが正直なところ、初対面の人と下手な英語を操りながら食事をするのは大変な気苦労で、下宿に戻るやいなやベッドに横になった。
そんなところへどういう偶然か、ロサンゼルスから友人が訪ねてきた。こちらへ来るときに船で一緒だった郭維源君だった。クリスマス休暇を利用して南カリフォルニア大学の友人と一緒に東海岸へ遊びに来たのだという。すでに日は暮れており、彼らを案内できる格別の所も思いつかなかったので、以前のぞいたことのあるダウンタウンのゴーゴー・バーへ2人を連れて行った。
ところが、この日はクリスマスの晩とあって、来ているのはわれわれのような独り者か旅行者がほとんど。当然、女性の数も少なく、踊りを申し込もうにも絶対数が足りない。あぶれた男たちはテーブルでふてくされてビールを飲むだけ。折角来てくれた郭君たちには気の毒だったが、欲求不満のまま店を後にした。
締めくくりはビッキー宅のパーティー
以上のように、この年の12月はいろいろな出来事が相次ぎ、実に目まぐるしい1か月だった。そんな年の瀬の最後の最後に少しばかり嬉しいことがあり、明るい気分で1967年を締めくくることができた。前々回に書いたようにジョージタウン大学で日本語を専攻しているビッキー嬢から「30日に自宅でしゃぶしゃぶパーティーをやるから来ないか」と誘われたのだ。
この夜のビッキーは、日頃キャンパスで見慣れた彼女とはまるっきり違っていた。胸の大きくあいたワンピース姿がとても魅力的で、大人の女性そのものだった。ぼくはこんな時のためにと三越で買ってきた花柄の絹のスカーフを彼女にプレゼントした。
目の前で包みを開いたビッキーはもちろん喜んでくれたが、ひと言、
「日本から来るものはみな三越の包み紙に包んであるのね」
とつぶやいた。彼女にとってぼくは何人目の日本の友人なのか――そう思わざるを得ない、胸にこたえるひと言だった。
(つづく)
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